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寳登山神社の再興

2006年12月11日

寳登山神社創建は景行天皇40年(110)日本武尊御東征の時と伝えられ、神日本磐余彦尊(神武天皇)、大山祇神、火産霊神の御三柱をお祀りします。

我が国に仏教が伝来し、庶民の間にこれを崇め信心することが広がり、その布教活動の結果、仏教が東国一円にも伝播します。

永久元年(1113)弘法大師来巡の地とも伝える当地に僧空圓が「玉泉寺」を開基し、爾来寳登山神社の神仏習合が始まります。

宝登山(ほどやま:海抜497m)の東麓に創立した玉泉寺は、宝登山を対象とする古くからの山岳信仰に密接に関係を有しています。玉泉寺のある谷津の最も奥まった所は、古くから宝登山信仰の聖地であったが故に、本堂及び諸堂を建てたと推察します。 聖地「宝登山」は神仏習合の中で「寳登山大権現」の鎮まる霊場として崇められ、多くの信者が集う処となりました。

江戸時代後期の文政6年(1823)「玉泉寺御改帳」によると、創立は前述のように永久元年、開山法印は空圓です。横幅6間・奥行5間半の本堂に安置される本尊地蔵菩薩の台座には「江戸仏師 法名尚盛 俗名又左衛門 (梵字)奉造立地蔵菩薩一体 奉行願主 栃原長左衛門 大願主 法印広寛」とあり「寛文七天 丁未十二月吉日」の文字が見えます。また、境内には不動明王を祀る護摩堂、十王堂、鳴鐘堂、稲荷明神、天神宮、山王宮そして宝登山大権現の諸堂諸社があったことが著わされています。本寺末寺の関係は、京都の智積院を本寺とする、真言宗智山派です。文政11年(1828)完成した「新編武蔵風土記稿」の内容もほぼこれを底本にしており、今から180年ほど前の玉泉寺の概要が掴めるかと思います。

享保年中(1716~1735)大里郡鉢形村の本寺を離れ、縁あって京都の智積院直末寺となって120年余り後の弘化2年(1845)、住職になって7年目46世法印榮乗の代に、御室御所の院家格を許され、確実に寺格を上げてゆきます。

この動きは江戸方面から秩父路への山岳信仰、秩父三十四番札所の観音参りを主体とした人々が多数訪れることによって、玉泉寺管理下にあった寳登山大権現の信者・崇敬者も増加してゆき、今日の講社講中組織へとつながってきます。御室御所の院家格を賜り皇室への尊崇の念もさることながら、菊花御紋章を掲げることによって、大権現の神格をも更に高める目的もありました。

寺の諸施設が整う中、寳登山大権現の社殿は「三間四面」(弘化2年「玉泉寺起立書」)の仮殿の如き小さなものでした。住職を務める榮乗(この時46歳)は同年「寳登山大権現縁起並勧化状」を草し、65軒の檀家と世間をまえに社殿再建の趣旨を発表し、弘化4年(1847)から工事が始まります。嘉永3年(1850)榮乗は住職を譲り隠居の身となり、再建事業に専念することになりますが、建築工事・彫物細工・雑作・手間代・飯料代等を含む総工費が1250両で、絵図面の通りに仕上げてこの額を支払う内容で契約されていますが、実際にはかなり省略された箇所があり、上棟完成までの間に諸物価の高騰、寄付金が予算額に満ち足りなかったなど、簡単にはことは進まず幾多の紆余曲折を経て、完成までには30年余の歳月を必要とし、明治7年(1874)5月ようやくにして本殿拝殿ともに竣工に至った。

この間の事情を「本社拝殿造営費寄進」記録は

拝殿造営ニ就テハ著手以来数十年経費以外ニ多額ヲ要シ当局ノ苦心容易ナラズ幾度カ中止ヲ覚悟セシ程ナリキ斯ル状況ナリシヲ以テ当時幾多ノ負債アルモ到底近ク辧済スル能ハサルヲ以テ止ナク事情ヲ訴ヘ債権者ノ厚意ニ俟ツノ外ナキニ至レリ債権者亦之ヲ諒トシ債権ノ元利金ヲ計上シ之ヲ造営費トシテ拝殿上棟ノ日ヲ以テ寄進セラレタルモノナリ月日附寄進金額並ニ氏名ヲ額面ニ認メ之ヲ本社拝殿内ニ掲ゲタリ

と伝え、めでたく竣工なった拝殿には、柱・梁、彫物・天井絵などに寄進者名が認められ、また債権者寄贈分は額面にて拝殿に掲げられています。

46歳にて再建事業に携わった榮乗は、玉泉寺隠居の身分で江戸を中心に寳登山神社の社殿の再建資金を募るため、本所猿江町の覚王寺住職を勤めていた69歳のとき明治維新に遭遇します。しかし榮乗の社殿再建への情熱は衰えることを知らず、「神仏判然令」が出ると、どのような形で後始末を付けたか不明ですが、寳登山大権現の神号を寳登山大神に改め、自身は復飾して東京芝神明の神主小泉大内蔵へ入門、神祇道を修め「小菅式部是道」として寳登山の初代神主となり、愈々社殿再建に傾注していきます。古希を間近にした老僧が還俗して神祇道を修めるということは非常に厳しいものがあったに違いなく、宝登山に寄せる強い信仰心は、天保9年(1838)39歳で玉泉寺住職になった時点から芽生えたものと拝察します。

榮乗こと寳登山神社初代神職の小菅是道は、社殿が完成した翌明治8年(1875)8月76歳の生涯を静かに閉じ、玉泉寺墓地に眠ります。

寳登山神社再建にかける榮乗の神仏に寄せる厚い信仰と導き、そして初志を貫き通す確固たる誠意が、氏子を始め数多の講社講中崇敬者の信心の炎を大きく燃えたぎらせ、今から130年前の事業が完成されたものと確信しております。

来たる平成22年「御鎮座千九百年」の佳節を迎えるに当り、記念事業を計画しておりますが、古人の信心は代々今に受け継がれ、私たちの血肉となっています。今を生きる我々神職は榮乗こと小菅是道の心を戴して日々「祭祀の厳修」に務める所存でありますこと、改めて顕かにいたします。

註:
神社新報刊「神道と祭りの伝統」より著者茂木貞純氏の許可を得てホームページ用に改めました。
カテゴリ: HODOSAN-KUN の文机
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