2003年4月7日
寳登山神社を訪れた多くの方が「ここは鳥居もあるし、玉泉寺と彫られた寺号標も建っているし、神社ですか?お寺ですか?」と私たち神主に質問されます。そこで神社とお寺の歴史をご説明いたしますと「めずらしいですねえー」、「へエー」、「うちと同じだあー、神(棚)もあるし、仏(壇)もあるし」等等等。
ホームページ開設にあたり神社とその別当寺であった玉泉寺との関係は、神仏習合の長い歴史が生んだ中でも、珍しい事例ですので、概略をご紹介いたしましょう。
寳登山神社の創祀は今から1900年のむかし、日本武尊御東征の時と伝えられ、神日本磐余彦尊(神武天皇)、大山祇命、火産霊命の御三柱をお祀りします。一方玉泉寺は永久元年(1113)、弘法大師来巡と伝える当地に僧空円が開基にかかわり、爾来代々の住職は別当職として755年にわたって寳登山大権現(神仏習合当時はこのように称していた)の祭祀を続け、この間に京都御室御所の院家格を賜るなど、寺格を高めてきました。明治元年(1868)に四十八世栄明を最後として神仏分離が行われました。
ここまでは多くの神社に共通の道程で何のてらいもありませんが、両者の特別な関係はこの分離の仕方にあるのです。
即ち両者は、一応は分離の形式をとったものの、寺は従来どおり存在し、あらたまった点といえば
などが主な点であります。
玉泉寺は真言宗智山派の末寺で、檀家の多くは長瀞地内に暮らし250戸を数えます。そして寺の建造物や境内地の維持管理は神社側に任されています。
さて寳登山神社の氏子は長瀞町内の2200戸、8000人。講社講中は前述のごとく寺時代から受けつぎ、その信仰の内容は変貌しましたが、大小約800講があり、これら崇敬者の接遇には玉泉寺本堂、護摩堂、参集殿など寺との伝統に基づく黙約により利用し、また社寺双方ともにその祭典法要などに際しては互いに参列する例になっています。
神仏共々に信心する、重層信仰は日本人の信仰生活上の顕著な特徴だといわれており、また日本人の寛容性の現われでもありますが、我々はこの寳登山に社寺を残すべく努められた多くの方々の心と、この共存の事実に則して、神社活動を工夫実践しつつ前進してゆくことが、この特別な関係を生かす道だと考えています。