2003年10月3日
神楽の元々は、神が施す呪力ある舞踏で、神が人々の幸福のために行う所作とされていますが、一方では、人々が神慮をお慰めする歌舞との考えもあります。
カグラの語義は神座(カミクラ)がもとで、必ず神を安置した神座を設け、その場で行われることは、一貫した特色であります。
秩父地方では神楽を「だいだい」、「でぇでぇ」とも呼びならわしていますが、これは「太々神楽」の略称です。
秩父の神社に伝わる神楽は、秩父神社、白久、根古屋、井上、両神の系統に大別されています。
秩父神社神楽の創始は、資料を欠き詳らかではありません。寛永年間(1624~1628)に舞の崩れた処を真してもらったとの口伝があることから、かなり古くから、神楽は行なわれていたようです。
秩父神社系統は、郡内16か所に伝え広められ、当社の神楽も、創設以来その流れをくんでいます。
神社神職間では、神楽が伝え教えられることは、明治以前に行なわれていましたが、秩父神社に伝わる神楽が、村々に伝わるのは明治4、5年(1871・1872)からであるといいます。
寳登山神楽の師匠筋にあたる日野沢神楽は明治14年(1886)日野沢太々協会として発足し、秩父神社と千ノ宮神社に神楽奉奏をつとめていました。明治22年ごろになると協会員も増え、協会の統制もとりにくくなり、また町村制施行に伴う字の分離も重なるなどあり、日野沢太々協会は二分され、その一派が明治43年(1910)、当神楽の前身である藤谷淵神楽団として発足します。
その後、この藤谷淵神楽団は神楽装束の調製や団の運営に寳登山神社の援助を受けることから「寳登山神社神楽団」と改称します。そして大正3年(1914)には氏子内の岩田地区の有志によって岩田神楽が派生するまでに精進努力がなされ、時代のめまぐるしい変転の中にあっても中絶することなく後継者に伝承され、昭和45年(1970)長瀞町無形文化財の指定を受け、平成8年(1996)長年にわたる活動と地域文化の向上に寄与したとの事由から埼玉県文化ともしび賞が贈られ、今は子供たちにこの伝統芸能を伝えるべく、研鑽と伝習につとめています。
宝登山神楽は、関東地方でよく行なわれる、出雲神楽と呼ばれるもので、神代神楽・岩戸神楽とも言われるように、神話によるものがその多くをしめます。
神楽は大きく二つに分けられ、一つは素面で刀や笹などを手にして舞う「採り物神楽」と、面をつけて能風に舞う「黙劇」の神楽で構成されます。
座数は36座、番外3座からなります。曲目で見ると、奉幣・四方祓、湯笹の舞、鉾の舞(通称:天狗)、二本太刀の舞、二本榊の舞、蟇目の舞(八幡様)、鏡の舞、剱鍛の舞(鍛冶屋)、翁の舞、岩戸開き、代参宮、稲作の舞(稲荷様)、二本幣の舞、根榊の舞(山ノ神)、二本扇の舞、国平の舞、大蛇退治、二本太刀の舞、櫂の舞(壁屋)、太刀の舞(柱切り)、釣り込み、そして番外のおかめ・ひょっとこの舞、大黒舞、探湯(くがたち)・湯立(湯沸し)があります。
神楽の36座、番外3座の全てが舞われることは極めてまれですが、4月3日例大祭に始まり、5月2日奥宮祭、1月1日元旦祭、2月節分に数座ずつ奉奏されます。
ことに人気の演目は、邪気をはらう矢を四方に射る蟇目の舞(八幡様)、大黒様が人々に御供に託し福を施す「大黒舞」、子供たちと御供をつけた釣竿を引き合う「釣り込み」が上げられます。