2004年5月18日
平成22年は日本武尊が、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと=第一代神武天皇)を始め、山の神=大山祇神(おおやまづみのかみ)、火の神=火産霊神(ほむすびのかみ)の三神を、山の神の神使(お姿は山犬さま)=大口真神(おおぐちのまがみ)の加勢を受けつつ登山し、山上に神籬(ひもろぎ)を立て、寳登山神社の創祀にかかわる、祭祀を営んでより、1900年の佳節の時を迎えます。
日本武尊(やまとたけるのみこと)さまについて、少しお話しをいたしましょう。
日本武尊は(大足彦忍代別天皇=おほたらしひこおししろわけのすめらみこと)第12代景行天皇の第二皇子としてお生まれになります。兄を大碓皇子「おほうすのみこ」、日本武尊は小碓皇子(をうすのみこ)、日本童男(やまとをぐな)とも呼ばれ「幼くして雄略之氣有り。壮に及びて、容貌魁偉、身長一丈、力能く鼎を扛げたまふ」ご存在で有りました。
日本武尊の活躍は熊襲征伐に始まり、この時のお歳は16歳の青年でした。尊は熊襲の魁師者、川上梟師(かわかみのたける)の宴に連なる童女に姿を変え近づき、酒に酔い油断した川上梟師を誅殺いたします。この時、川上梟師は尊の智略と働きとを褒め称え、「自分より強い貴方に、タケルという名前を献上いたします。以後は日本武皇子と名乗ってください」といい遺し息絶えます。
熊襲の国を平定したことによって、西の国々は静まり、吉備、難波国も従うようになった景行天皇40年、東の国々が謀叛を繰り返すようになると、蝦夷(えみし)も騒乱を起こすようになりました。天皇から東国平定を命ぜられた尊は、伊勢の神宮に東国平定の成功を祈り、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から、素盞嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大(やまたのおろち)の尾から得た神剣「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」を授けられ、勇躍として征途につきます。
しかし尊の前途は多難でありました。駿河国の焼津では野火攻めに遭い、神剣を振るい野火を薙ぎ払い、天叢雲剣は草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになる活躍をされ、横須賀走水では最愛の弟橘媛(おとたちばなひめ)を入水によって喪う悲劇を乗り越え、上総国木更津に上陸いたします。その後、陸奥国に進み艱難辛苦の末平定すると、蝦夷もその勢いに従うようになり、東国の平定がなりました。
陸奥国の平定が済むと、尊一行は陸路帰途につきます。その道筋を「日本書紀」は「常陸国を経て、甲斐国に至りて、酒折宮に居します。(中略)唯信濃国・越国頗る未だ化に従はずと。即ち甲斐より北に轉り、武蔵・上野を経て、西碓日坂に逮ります」と極めて簡略な表現をしています。
しかし、かつて武蔵国であった東京の台東区鷲神社、五条天神社、榊神社、文京区根津神社、青梅市の御嶽神社にも、日本武尊の伝説が語られています。
甲斐国三富から雁坂峠を越え武蔵国へ踏み入った尊は、第一歩を三峯の地に遺すほか、寳登山神社を始めとする、秩父に鎮座する多くの神社や山々村々に生き生きとした言い伝えを残しています。
場所 | 言い伝え |
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熊倉山の神明社 | 伊勢の大神宮を遥拝したところ |
武甲山 | 秩父が嶽への甲の奉納 以後山名を「武甲山」と呼ぶ |
猪狩山 | 日本武尊の猪退治 |
猪鼻 | 猪狩山で退治され切り落とされた猪の鼻が落ちたところ |
小鹿野神社 | 尊一行を案内した小鹿の塚と地名伝説 |
両神山と両神神社 | 山をめがけ歩いた八日間「八日見山」とイザナギ尊イザナミ尊を山頂に祀る |
吉田町椋神社 | 尊一行を案内した猿田彦尊を祭神として祀る |
皆野町出牛 | 突如現われた牛が尊を対岸に案内する |
二本木峠 | 尊が食事に使った箸を差しておいたところ、その後二本の杉になった |
日本水 | 釜伏山からの下り道、喉の渇きを癒すため、水を求め剣を岩に刺したところ清水が岩から湧き出す |
こんな話が各所に伝わっています。このほかにも多くの話が伝わります。日本書記は、武蔵国におけるご活躍のご様子を、ごく簡単に記述しておりますが、実際には多くの足跡を各所に遺しているのです。