宝登山(497.1)は秩父山塊の中でも数少ない独立峰の体をしめし、秀麗な山容は四季折々の自然の美を生み出し、訪れる人々の心を和ませています。神道では人も自然の中に共生するもので、私たちの周りのものや人に神が宿り、こうした自然の中に存在する多くの神々を崇め敬います。山川草木豊かな自然は清浄を生み成し、そこは聖なる清らかな場所として神が宿り給う処となります。私たちは特に優れた力や自然界の生命力をカミとして崇め敬い、自然が生み出す恵みと脅威をも受け入れ、「今」を大切に想い日々の生活を営みます。自然に恵まれた寳登山はまさしく神鎮まります聖なる空間として清らかな時間を清らかなこころで御参拝ただきますよう願っております。
第一代の天皇で、皇室の祖先にあたります。九州の日向の国を出発してから瀬戸内海を経て河内、そして紀伊に迂回をし熊野、艱難辛苦の旅の末ついに中洲の大和に入り、橿原の地にて御位につきました。
山を司る神、人の生活に欠かせぬ水に始まり動植物、いわゆる山の幸を無限に恵み給う神。神犬の大口真神を御眷属としてお使わし下さり我々をご守護下さいます。
ホは火を表し、ムスビは物を生成する神秘の力を表し、燃え盛る炎が人の生活に必要な様々なものを生み出しして無限の幸を授けて下さると共に、火を司って下さる。
鎮座地 | 埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828番地 |
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電話 | 0494-66-0084 |
FAX | 0494-66-1860 |
西暦110年、今からおよそ1900年前、第12代景行天皇の御代、皇子日本武尊が東征の帰途山容の美しさに惹かれ、ミソギの後に山頂を目指します。途中山火事に遭遇しますが神犬の神助を得て、無事に宝登山山頂に於いて神霊を祀られた事が当社創建の始めとつたえられています。
現在の御社殿は、江戸時代末から明治初頭に造り替えられた本殿、幣殿、拝殿より成る権現造り(ごんげんづくり)です。欄間には、「二十四孝」を始め多くの彫刻が施されています。
この社殿再建には当社別当であった玉泉寺住職榮乗の人生をかけた尽力によって完遂いたしました。榮乗は茨城の人で天保9年(1838)40才の年に玉泉寺の住職に迎えられ、弘化2年(1845)社殿再建を発願し同4年着工いたしますが、その後資金調達に難儀をいたすなか、明治を迎えると僧籍を離れ神祇の道を修め引き続き再建に邁進し、明治4年に本殿、明治7年に拝殿完成を見ます。この間実に29年の歳月をかぞえ、榮乗は小菅是道と名乗る初代神職として明治8年76才をもって帰幽いたします。
本殿はじめ拝殿の随所に熊谷在武州明戸の彫刻師飯田岩次郎による彫り物には平成21年御鎮座1900年を奉祝して改修工事が行われ、そのさい彩色を施した彫刻が飾られ緑の森の中荘厳な佇まいです。
荒川の左岸に山裾をひろげる宝登山497.1㍍の山頂に奥宮が、麓の山懐に抱かれるような形で本社が鎮座いたします。
今からおよそ1900年の昔の事、第12代景行天皇の皇子日本武尊が東国平定後に秩父の地にお入りになり、秀麗な山容に魅了されミソギを済ませ山頂へと向かいます。しかし突然の山火事に進退が極ったその時忽然と山犬たちが出現し瞬く間に火を消し止め、尊一行を頂上まで案内すると山犬たちは姿を隠してしまいました。この不思議に尊は山の神が御眷属の大口真神たる山犬をお遣わしになり、自分たちを救ってくださったとお悟りになり、山頂に神籬を設え尊の祖先にあたる第一代神武天皇・山の神の大山祇神・火の神火産霊神を祀り、山の名を「火を止める山」と表し「火止山=ほどさん」と定めました。このことが寳登山神社の始りと伝えられるのです。
その後弘法大師の御跡を慕う空圓が永久元年この地に草庵をむすび玉泉寺を開き神仏が静まるところとなり、ともに栄えてきました。江戸時代には玉泉寺が別当を務めて社を「寳登山大権現」と呼び維持してきましたが明治を迎えると神仏分離によりそれぞれが独立した社寺となりますが、共に支え合うかたちは今に続きます。
長瀞町には寳登山神社の宮司(神社の代表)が預かっている神社が各地域に11社あります。人々は、ご神徳(ご利益=ごりやく)で、安心の日々をおくることができることから、お恵みをくださる神様を祖先のように敬い、氏神さま・鎮守さまと呼びならわし、自分たちを氏子(うじこ=神さまの子孫)と呼び、春秋にご加護と感謝のお祭りを催し大切に崇敬しています。