2017年11月20日
秩父鉄道史にこと寄せながら
明治の実業家澁澤榮一翁は「長瀞は天下の勝地・寶登山は千古の霊場」と讃え、大正の御代、御歌処に仕えた鳥野幸次は「長瀞を御手洗にして此の里の鎮めと坐ます寶登山の神」と詠い、両人ともに自然の営みを神の御業と嘉し給い、その恵みに感謝しつつ生きる人々の心をも併せ称えています。
澁澤榮一翁は武州榛澤郡血濯島(現深谷市血洗島)に天保11年(1840)に藍玉製造、養蚕に力を入れる豪農の家に生まれました。
14,5歳から家業である藍の売買を始め養蚕・生糸なども手掛け秩父地方の村々には足繁く通っていたと伝えられます。
幕臣から明治政府の官僚を経て、明治6年(1873)官を退き実業界に身を置くようになり多くの会社設立に関わりました。
秩父では秩父鉄道㈱と秩父セメント(現太平洋セメント)が挙げられます。
山峡の地、秩父への道は限られていました。若き日の榮一が歩んだ道は、多くの峠を越えてのもので人力と馬力に頼る、「秩父往還」と呼ばれる一条が村々をつなぎ、人々の生活を支えました。
明治19年(1886)大宮郷(現秩父市)から寺尾・国神さらに児玉を経て本庄駅(現JR高崎線)に至る停車場線の新道開削に続き、明治28年(1895)には波久礼の難所を踏破して寄居町を経由し、熊谷駅(現JR高崎線)へとのびる秩父熊谷新道が開削されましたが、交通事情は幕藩体制下とさほど変わるものではありませんでした。
明治32年(1899)埼玉県の北西部の町を結び大量輸送により地域の発展を目指す秩父鉄道㈱の前身、「上武鉄道株式会社」が設立され、鉄路の敷設が鋭意進められました。
秩父山地への入り口にあたる、「波久礼」は「破崩れ」の地であります。
明治34年(1901)から明治36年(1903)山と荒川が狭隘な地形を形成する波久礼の難所を貫く工事は多額の出費と資金難に、会社の存続すら危ぶまれる状態に陥ります。
会社は十法手を尽くす中ついに澁澤榮一らの援助を受け、さらに陸軍工兵隊の力も借り、艱難辛苦の末に完了し、明治44年(1911)悲願が敵い熊谷~宝登山駅(長瀞駅)が一つにつながり、開通式には榮一も出席し祝辞を寄せています。
この鉄道開通により宝登山神社への参詣にはじまり、桜の花見、岩畳と瀞の景勝を楽しむ舟遊び、川下りと都会から長瀞に遊ぶ人たちも増加し、今の「観光地長瀞」の基を築きました。実業界で激務をこなす榮一は風光明媚な長瀞へ清遊され、宝登山神社へも度々参拝がありました。
その後、鉄道は荒川左岸への延伸が地質軟弱なために断念、新たに大宮郷(現秩父市)へ向かうため荒川に煉瓦積みの橋脚を建てます。長さ167メートル高さ20メートルの「荒川橋梁」は大正3年(1914)9月に完成し、時期を同じくして秩父駅が開設され結果、秩父のセメントは都市部へ大量輸送され、当時最先端の近代建築が東京をはじめとする都市に出現し、近代化に大いに貢献をしました。そして近代化の波は徐々に秩父にも訪れました。
埼玉の偉人として澁澤榮一が挙げられますが、その業績は数多あるために郷土への業績が隠れがちになります。本年平成29年から再来年にかけて、秩父鉄道史は120年の節目となります。
澁澤榮一翁が事業哲学とした「論語と算盤」をもって「私利よりも公益を図る、との公共への奉仕の心」が遺した業績の一端に触れつつ、秩父長瀞の将来に今を生きる我々が遺す「心」を探りあて、磨き上げてゆきたいものです。